HISTORY

Artist / Fuyuka Ohtaki

 

1990年千葉県出身、軽井沢在住のアーティスト。

ダンス、舞台芸術、ジュエリーデザイン、画家として
表現創作活動をしています。

 

 

 

 

 

One dancer

 

これは、あるひとりのダンサーの物語です。

 

 

 

prologue 【 踊り続ける理由】

 

幼少期、特殊な家庭環境にありました。

16才のある日、突然保護されて連れていかれた先は女性保護シェルターでした。私にとっては「殴られる、蹴られる」などは、いつもと変わらぬ日常だったので保護される理由がわかりませんでした。なので保護を全力で拒否し、いつもの日常に返してもらうよう説得しました。

そのとき何人もの大人に「わかってますか?あなたは虐待を受けているんですよ?」と強く言われて、自分が虐待を受けている張本人であることにはじめて気付かされました。

 

 

まさか虐待を受けているとは思ってもみなかったけれど、たしかに、毎日は辛かったです。

過酷でした。いつも自分は何のために生まれてきたのかわかりませんでした。

両親から浴びせられる言葉は「お前なんか、生まれてこなきゃよかった」「お前のせいで人生が狂った」

 

それでも私にとってはたった一人の父であり、母でした。やっぱり弟のように私も愛されたくて、父と母の願いを叶えようと、息を潜ませてなるべく静かに生きてきました。

 

 

そうして私はどこに出しても恥ずかしくない完璧な優等生、問題が一つもない立派な娘として育ちました。

 

 

 

それを見た、父と母は次第に私を誇りに思うようになります。

やっと家族間での自分の存在理由、許可を感じられました。

 

私たち家族は理想の家族であり、理想のお父さん、お母さん。どうしたらあんなにいい子が育つのかと、周囲の評判がとてもよいことに両親は鼻高々でした。

 

 

小学校高学年あたりから、その色はどんどんと濃くなっていき、私自身も「本当の私ではない私」として生きることがこの家で存在を許される唯一の方法だということも明確に理解していきました。

 

しかし、同時にギャップと違和感も見て見ぬ振りはできないことも理解していました。私の心が壊れてしまうこと、それは両親にとっては大変な厄介ごとであるのは火をみるよりも明らかだったので、私は自分の力でバランスを取る必要性がありました。

 

 

 

そんなとき、5才からはじめたバレエを踊っているときは「『私』でいられる場所である」ことに気が付きました。

 

 

 

6才、はじめてのバレエの発表会。

母が私の踊りを見て涙しました。私にとってはそれは大変にセンセーショナルな涙でした。母も母で、父から毎晩のように振るわれる暴力に怯え、自分を檻に閉じ込めて生きているような人でした。

 

だから、母の涙は...今の自分の不自由さ、そして自由を感じた涙...そう、私には見えました。

 

大空を高く飛ぶ鳥。

母に翼を与える踊り、それが私の踊りにはできると確かに感じたのが6才です。

 

 

 

私は11歳になり、初めてロシアのレニングラード国立バレエ団のくるみ割り人形をみることになります。

そのときに私の身体を稲妻のような衝撃が駆け抜けました。

 

高校受験が迫るころ、私には進学の選択肢はなく「1秒でも多くバレエを踊りたい」「上達したい」「早く独り立ちしたい」そうとしか思わずに毎日を過ごしていました。唯一、自分と繋がって、生きている手応えを感じられるのが踊ること。

 

 

私は、バレエダンサーとして身体的にも才能や環境に恵まれたものではなかったですが、バレエの恩師には「あなたには踊り心がある」と言われ、私も今でもその言葉は大事に胸にしまってあります。

 

 

 

いつだって、踊りが私を支え、救いました。

 

 

言葉では伝えられなくとも、踊りなら伝えられる。私にとっては人と繋がるコミュニケーション手段であり、生命線であるのです。

踊っていると「自分とは何か」を求道する感覚があります。それが自己の魂を生きる手段です。

 

 

その姿を表に現すことで、私のたどった道が誰かの希望や勇気に変わります。

勇気、愛、希望を伝えるため・自分が魂の道からそれて迷わないために、私は踊り続けています。

 

 

 

愛されること、愛すること、私の愛のカタチ、それが踊りです。

人間の根幹にある活動原点は愛を通わせることだと思うのです。

 

その活動を言葉ではなく、踊りをもって行うのが大瀧冬佳という人間です。

 

 

Act 1 【舞台をつくるということ  -代表作 / Maoについて-】

 

 

24才のとある日、観劇した直後、あまりの衝撃に全く立てなくなった舞台に出会いました。

その脚本・演出家さんとのアポをとりつけられた日は、歓喜に体の震えがとまらず、嬉しさと緊張で食が喉をとおりませんでした。

 

私の人生は波乱に満ちあふれ、まともに舞台に立つ機会が訪れたのは25才になってからです。

16才で保護されてからは...母の余命宣告、両親の壮絶な離婚劇、家庭崩壊、解離性人格障害の発症、閉鎖病棟強制隔離入院、母の死、弟たちのヤングケアラーと話題に事欠かない強烈な日々をなんとか生き抜いてきました。

 

 

また舞台で生きたい。

 

 

そんな思いが日々膨れ上がり、私は無謀にも自分でカンパニーを結成することを決めました。

ブログを毎日書き綴り、私の記事が何百、何千とシェアされたことで全国から同志が集まると奇跡が起きました。

 

 

 

Mao kickoff 【初期メンバーとともに】

 

 

劇場下見や制作プロセスの模様をFacebookやブログですべて公開し、さらに共感者や応援してくださる方々から毎日メッセージが届くようになっていきました。ただの主婦の呼びかけに、こんなに世界が反応してくれることにただただ感謝しかありませんでした。

 

 

 

そして、例の脚本・演出家の方にも直談判にいき、奇跡的にシナリオを書き下ろしていただけることとなりました。

 

 

「冬佳がなんで閉鎖病棟から出て、こうして踊ることができているのか?それはみんなが知りたいところ。それを舞台にしてみたらいい」

こんな一個人の経験を舞台化させて、多くの人を巻き込んで、いいのだろうか?と不安にも思ったのだけど、美加さんがそうだと言うのだからそうなのだとスタートしたのが「Mao」と言う作品です。

 

 

 

「少女は精神科の閉鎖病棟のベッドの上で目覚めた」からはじまる5つのストーリー。

 

セリフは一つもない、ダンスと音楽のみで紡がれる、冥界を旅する物語でした。

 

 

 

 

集まったメンバーは住むところも、ダンサーとしての熟練度も様々な中での舞台創作でした。私たちは、コンマ1秒の世界の中を、明確に心の機微を表現することに音響、照明、演者、楽器隊、スタッフすべての人間が全エネルギーを込めて挑みました。

 

 

1秒、1音、1息、みんなで刹那を紡ぐ空間は、劇場に訪れた観客に壮大なインパクトを残しました。

 

 

どのセクションの人間も、自分の持ち場にフルコミットして、創り上げたこのMaoという作品は、全ステージでダブルアンコール・スタンディングオベーションが巻き起こりました。観客総立ちの大熱狂の渦はこうも経験できるものではありません。

 

 

開演30秒で客席は号泣し、嗚咽が響いた作品。

偶然、隣り合った観客同士が、興奮を一人で抱えて帰ることはできずに阿佐ヶ谷の居酒屋にみんないるっていう。私たち演者スタッフ陣が反省会に飲みに行くと全席、阿佐ヶ谷の飲み屋街全店に、Mao観客がいて興奮冷めやらず...「ふ〜ゆ〜か〜さ〜〜〜ん!!!」と出迎えられる。流石にこれは奇跡か夢であり、伝説だとしか思えませんでした。

 

 

そもそも私のようなたった一人の声で、名も知らぬ人々が500名も全国から観に訪れてくれたことは奇跡としか言いようがありません。

 

 

 

 

 

 

 

扱っているテーマがテーマでしたので、「パニックになってしまう可能性があるので出入り口の近くに座席を指定することはできるか?」や「もう何十年も引きこもっていて、本当に冬佳さんの踊りを観てみたいけれど、当日行けるかどうかわかりません」といった問合せがとても多かったのです。「よくある質問」からして、ただの舞台とは思えない異彩を放っていました。

 

 

 

でも...

そういった方々も含め、この舞台をキッカケに社会復帰ができたとか、精神薬をやめることができたとか、自分も歌手としてチャレンジし始めたとか、そういった内容のメッセージや舞台の感想、Facebookでのシェアが終演後半年経っても止むことはありませんでした。

 

舞台が終わってからも...団員たちが働くバイト先には、連日Maoの観客が訪れ...Uzme経済が回り続けているのはとても不思議でした。Maoの打ち上げはなぜか何度も開催されて、よく知らない人(観客)がわが家にきて上映会をされていたりと、本当に最初から最後まで事件か奇跡でしかない舞台でした。

 

私は本番前に足を3箇所も骨折しての出演だったのですが、不思議なことに踊れました。

 

団員のみんなからもらうエネルギーや、全国の観客の皆様のパワーが私を突き動かしました。

 

この舞台のキャッチコピーは「自分を動かすものは何ですか?動かさなければならないものは何ですか?」です。

 

 

 

 

 

あのとき...ひとり...閉鎖された病室で闘っていた私は、今、こうして舞台に立ち、人々に勇気を与えているという現実。

 

 

 

私は閉鎖病棟で一生を過ごすのでもういいかも...と本当は人生を諦めていたんです。

精神薬を大量に飲んでいたので幻聴や幻覚の可能性は非常に高いのですが、あのとき、神が私の前に現れました。

 

「あなたは何のために生まれてきたのか、それは天の岩戸開き。外の世界に必ず戻って、踊りで人の魂の扉を開くのがあなたが生まれてきた理由」当時の私は日本神話も古事記も知らないので、何のことかさっぱりわかりませんでしたが、これをキッカケに病棟の中で四六時中踊るようになりました。外へ出るために。

 

 

 

 

Maoは実話に基づいたファンタジーという名目ですが...もしかしたら何よりもの真実だったのかもしれません。

私は生きながらにして、冥界を旅し、この現実の世界に戻ってきました。

 

 

 

 

誰にも指一本触れさせなかった鞄の中身は...自身の性のエネルギーでした。

 

 

 

一番、忌み嫌い遠ざけてきた「性」が実は自身の生命力を更新させる鍵だったことにMaoは気付かされます。

 

 

母との共依存のおかげで、自身の性も、母の性も受け入れることができません。

 

 

 

 

冥界にいた女神は、母と瓜二つな「女の化身」

 

 

 

 

今まで、大切に大切に守ってきたものは、あの女の化身と同じ「性」であったこと。

Maoはパニックで気が狂います。そこへ「愛」が手を差し伸べます。

 

 

「これがあなたであり、あなたは美しい」

 

 

拒むMaoを「愛」が受け止めます。

成すすべのなくなったMaoは...

 

 

 

泣きわめきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

受け入れ、冥界の旅が終わりを迎えようとします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

様々な花が咲き誇り、世の真理を理解します。

命の源が自分の中にあること。

 

 

 

 

胸に抱きしめ、Maoは現実の世界に帰って生きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3日間5ステージ終演後

 

 

千秋楽を終えると、連日の徹夜作業と本番に倒れました。ずっと支えてくれた、準主演のMioさん。

 

 

 

都内スタジオを駆け回りリハーサル三昧でした

 

新潟、福岡、大阪から通ってくれた団員のみんな。

 

 

 

 

 

 

 

音響・照明のスーパーマン

 

打ち上げは朝まで続きました。私たちは打ち上げ中も次の公演についての構想を練り合う変態集団。

 

 

 

これが私たちがやった公演です。

舞台は決して一人では作ることができません。そして、二度とこのメンバーとあの観客が集うこともないでしょう。

 

奇跡を生む、舞台というものを私はこれからも作り続けていきます。

 

 

 

 

 

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