Act 2 【大瀧冬佳はまた踊れる、何があっても踊る】

Photo by Yoichi Ochiai
2022年現在、32歳になりました。
Maoを実際に制作した期間は1年ですが、Maoの構想の種は7年前から、そして熟成期間がありました。Maoが終わったあと、私は「大きい舞台作品は8年おきにしか創れないかもしれない。それだけに私の中に強い原動力となる想いと熟成の時間が必要なのかも」とこぼしていました。
旗揚げ公演「Mao」が上演されたのは2017年のこと。
その後、何度か舞台の企画が持ち上がりましたが...大きい公演は未だに実現できていません。
そして、2025年がちょうどMao終演後8年を迎えます。
あれから私は、妊娠、出産、そして会社を立ち上げ経営者として七転八倒の日々。つい先日までビジネスに奔走していました。
4人の男の子の母となり、あの頃のMaoは明らかに姿、様相、が変わりました。
「アーティスト大瀧冬佳」を捨てた3年間でもあります。
Maoが終わってから、たくさんの方からの接触がありました。NYのブロードウェイ、NY国連本部からのオファーなど、様々な人からのお声があり、いろんな意味で世を知りました。
また出会った方の影響で、私は「ダンサー大瀧冬佳であり続けること」に自信や誇りを持つことができなくなってしまいました。
結果的に、身体も精神も崩壊し、気がついた頃には、その方から何とかして離れなくては身が持たない状況にまで陥っていました。
すべて私が招いたことです。大変な回り道をして、踊ることが大瀧冬佳にはいかに必要不可欠なものなのかを思い知りました。
もう二度と、大切なものを自ら手放すようなことはしない、と誓いました。
今私は行きつ戻りつのプロセスを歩みながら、ようやく心のリハビリを終えられたように思います。
自分が自分に放った言葉でしか、人は傷つくことはできません。
私はこの3年で、たくさん自分を傷つけました。
それは「幸せ」という幻想にしがみついたことが大きな要因です。
幼少期の惨めな自分や、寂しさ、哀しみ、怒り...私はそういったものは完全に昇華し自分の中から消えて無くなったものだと信じて疑わなかったのです。ですが、それは間違っていました。私は痛みや傷とともにこれからも生きていくのです。
あの頃の私を亡き者にするには、あまりに大部分の私を否定してしまうことになります。
悔しかったのです。
可哀想な目で見られることが。
(これも私の解釈でしかないのですが...)
だから、いかに私はもう大丈夫な人間かを見せるためにたくさん努力しましたが、本当に本末転倒なことでした。
もうすべての鎧と武器を捨てて、私は私のまま、踊ることにしました。
これから先は誰になんと言われようとも、自分を大切にしてあげたいです。
そもそも私が踊る理由に自信があるかないかも、誇りがあるかないかも関係なかったわけです。
私は「それは大瀧冬佳じゃないとできないことしかやってないよね。それってこれからもビジネスとして成り立つものだとでも思っているのか」この問いかけに大きく揺らいでしまったのです。再現性や体系化なんて到底できないことしか、私にはできません。
「大瀧冬佳のカリスマ性に頼った構造は、いずれ終わりがくる。あなたがスゴイだけで誰のためにもなっていない」
「あなたの踊りや舞台作品は、結局は歪んだ精神を持った人間の消費対象ではないか」
私は元々、争うということが理解できません。
この言葉に反論するという考えがそもそもなくて「もしかして...そうだったのだろうか。私が勘違いしていただけなのだろうか」とこの一つの見解を受け入れてしまいました。そこから、私の考え、行動、表現はすべて間違っていると指摘されるものとなり、どんどん迷子になってしまいました。
今は、大瀧冬佳にしかできないことをやっていて、それしかできなくても、それでいい...そう思います。
それに「あなたの踊りをこれからも見たい」といってくれる人がこの世界には私が思うよりもずっとたくさんいました。
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私はこうしてようやく踊りだすことができました。
毎日を踊るように生き、生きるように踊る。
未来、2025年。
私はアメノウズメを踊ろうと思います。そういう舞台作品を創ります。
また、みんなと舞台を創り、人を感動させたいです。